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写真日記3月10日・・
この頃大分での仕事が続いていた僕は、陸路大分に向かっていた。
陸路で向かっていたのは、空路の割引が渋くなる時期だったから・・
確定申告の書類作成やらなんやら、新幹線の中でPC広げて作業できたから
これはコレでよかったかも・・
小倉でソニックに乗り換えて、大分入り。
穏やかな夕暮れだったね・・
夜には仕事のツレが大分入りして、呑みに出かけた。
その時のツマミだけど、コレなんだろう。覚えていない・・
この時は、まさか次の日に日本を震撼させる未曾有の災害が起きるとは思いもせず、
夜遅くまで宴会を楽しんでいたのですよ・・
そして、
311・246・・・ 東日本大震災 発生。
僕はこの時、大分県庁でこの地震を感じていた。
とても周期の長い揺れで、初めは地震と気づかなかった。
当然、それが遥か彼方東北沿岸を震源しているなんて、思いもしなかった。
でも、いつまでも収まらない揺れの長さに異変を感じ、それを確信したのはモニター画面に
映しだされた津波の映像。ちょっとやばいんじゃない?
その後、ツレの東京に住む家族とは家電も携帯も繋がらなくなり、安否の確認が出来なくなった。
僕の家族はWILLCOMだったので、全員安否の確認が取れて一安心。横浜も交通機関が
乱れているだけで、ライフラインは正常で問題なかった。
時間を追うごとに、大変なことになっているらしいとは感じつつも、まだまだ実感がなかった。
しかし、仕事を終えて帰路についた時、九州沿岸を走る鉄道が、津波警報により不通に
なっていたことで、慌てることに・・
まあ、慌てていた理由が仕事の打ち上げを博多でやろうよー決めていたから。
移動できないじゃん。 呑気です。
結局、阿蘇を超え熊本経由で博多に向かう特急「ゆふ」が平常運行だったので、無事博多入り。
道中約3時間弱。ビール買いそびれた僕らは車内販売も、途中で売店に寄ることもできない
その旅に、やや不満気味に博多に降り立った。
震災に配慮して、翌日華々しく行われるはずだった九州新幹線開業式が取りやめに・・
撤収作業が寂しげ・・
でも、
僕らの頭の中は打ち上げで一杯・・
中洲に繰り出して・・
春野菜の天ぷら盛り合わせや・・
ホルモン炒め
鰆の塩焼きなんかを肴に、杯も進んで上機嫌!
〆に本場のとんこつラーメンも平らげて、至福の時を迎えていたのですよ。
だって、博多の街行く人々や街の喧騒からは、僕らの帰る先で大騒ぎになっている
なんて、微塵も感じられないんだもの。
現実にドップリ浸ったのは、ホテルに戻ってテレビをつけてから・・
そこに映し出された火の海に包まれた気仙沼の街。
津波にのまれる名取の田畑、集落。
僕ら呑気に呑んでいる場合じゃなかったね・・
翌日、12時フライトの便で帰京。飛行機もその前の羽田便は欠航だった。
でも、前日乱れていた交通機関もほぼ平常運行で、空港から横浜の自宅へも労せず帰宅。
街も一見平穏だったけど、ガソリンスタンドだけは既に品薄序曲が始まっていた。
それからの2週間は、まだまだ被害の少なかった首都圏にいながら、妙な災害体験を
タップリすることになった。物資不足ね・・
怖いと思ったのは、人間の意識・風評。落ち着いて行動すれば、何も買い占めに走らなくて
も良かったよね?
さて、あれから1年。僕は何か災害復興に対して手を差し伸べたかというと、実はほとんど
していない。
僕の両親は宮城県出身。津波で大きな被害を受けた石巻には従兄弟も住んでいるし、
時の街となった南三陸町は、母の実家に近かったこともあり、幼い頃にはよく連れて行かれ
た思い出の地。
本当だったら我先に現地に赴いて、復興の手助けをすべきだった。
でも、気持ちは逸るけど、実行には移せなかった。
親戚連中幸いにして皆無事だったこともあったからか・・
石巻の従兄弟から、「慌てて来ることないから」そう言われたから・・
んー、それはそれで理由のひとつだろうけど、多分一番の理由は、僕が現実を直視して
受け入れる自信がなかったからだと思う。
現場はメディアが伝えていた以上の光景が広がっていただろうからね。
でも、そろそろ行ってみようかと考えている。復興支援なんて大義背負ってじゃなくて
まずは、現状を自分の目で見たい。そして理解したいね。何ができるか・・
その春、世間は沈んでいてもサクラはしっかり盛大に花を咲かせていた。
自然は時に非情で残酷。でもしっかり癒しを提供してくれる・・
最後に、犠牲になられた方々に、心より追悼の意を捧げます。
そして被災地の皆さま、お見舞い申し上げます。
1日も早い復興に向け、微力ですが僕も少しづづ協力していきます。
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